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【高村光太郎買取】高村光太郎の書やブロンズ像などの買取は永寿堂へ

高村光太郎の作品を買取りしております。詩人・歌人・彫刻家・画家という多彩な才能を持つ芸術家で「道程」の詩集で知られる高村光太郎が制作した書やブロンズ像のご処分売却をお考えであれば高価買取させて頂きます。

【目次】
高村光太郎の経歴や買取り情報について
 高村光太郎の人物像
  高村光太郎の略歴
  高村光太郎の作風と代表作
  高村光太郎の作品の買取水準
 高村光太郎の買取りは永寿堂へ!
  永寿堂へのお問い合わせ先

 

高村光太郎の経歴や買取り情報について

高村光太郎の人物像

高村光太郎は、明治から昭和初期にかけて詩人や歌人、彫刻家、画家などとして幅広く活躍した人物です。1873年に彫刻家である高村光雲の長男として東京で生まれた光太郎は、14歳の時に東京美術学校予科に入学した後、同校の研究科を経て、23歳の時に渡米して世界の芸術に触れることになります。その後、ロンドンやパリへの滞在を経て帰国した光太郎は、北原白秋らの「パンの会」に参加するのですが、旧態依然とした日本の美術界への不満から、「スバル」などの雑誌に美術批判を寄せています。また、芸術の自由を宣言した「緑色に太陽」という評論を発表したり、神田淡路町に日本初の画廊である「琅玕洞」を開設するなど、これまでにない独自の活動を展開しました。

1914年には第一詩集である「道程」を刊行するとともに、画家であり作家でもあった長沼智恵子と結婚するのですが、その智恵子夫人が統合失調症を患って1938年に亡くなると、彼女を偲んで「智恵子抄」という詩集を発表しています。戦時中は戦争賛美の詩などを手がけましたが、戦後は十和田湖畔に設置された「乙女の像」などの創作活動に明け暮れ、1956年に惜しまれつつこの世を去りました。

高村光太郎の彫刻作品

 

高村光太郎の略歴
1906年 ニューヨークに渡り、彫刻家ボーグラムの助手となる
1907年 翌年にかけてロンドン、パリなどを歴訪
1936年 「野原ノ松ノ林ノ……」という詩を宮沢賢治碑に揮毫
1945年 空襲によるアトリエ炎上を受けて花巻町へ疎開(終戦後に稗貫郡大田村山口に移り、農耕自炊の生活に入る)
1953年 十和田国立公園功労者記念碑の彫像を制作

 

高村光太郎の作風と代表作

高村光太郎は、若い頃にロダンに傾倒したり、アメリカやイギリス、フランスなどを歴訪するなどしたこともあって、その作風は欧米美術の影響を受けたものとなっています。例えば、彼の代表的な彫刻である「手」や「乙女の像」と名付けられたブロンズ塑像は、いずれも人間が持つ肉感あふれる描写が特徴で、欧米のリアリズムの画風を受け継いでいます。また、光太郎は、詩人や歌人としても知られており、「道程」や「智恵子抄」といった詩集や「白斧」などの歌集を残しています。

 

高村光太郎の作品の買取水準

高村光太郎は、近代日本を代表する美術家の一人だけあって、その作品は中古市場において高く評価される傾向にあります。具体的な買取金額は、作品の内容や状態によって変わってきますが、ブロンズ像で複製であっても数万円~10万円以上の買取りとなる事が多いでしょう。真作と判断できるブロンズ像であれば数百万円の買取り査定が期待できます。書や絵画などの作品でも彼の作品であることが確認できるものであれば、小さいサイズの作品でも10万円以上の値段がつけられるケースが多いでしょう。文献などに掲載の貴重な作品になると、さらに高額な金額で買い取ってもらえる場合もございます。

 

高村光太郎の買取りは永寿堂へ!

高村光太郎の高価買取は永寿堂へ

高村光太郎の作品を売りたいとお考えであれば、ぜひとも「永寿堂」におまかせ下さい。詩人・歌人・彫刻家・画家という多彩な才能を持つ芸術家で「道程」の詩集で知られる高村光太郎が制作したブロンズ像や書などの作品を高価買取させて頂きます。

当社は高村光太郎の作品をはじめ、幅広いジャンルを取り扱っております。骨董品や陶芸品や骨董品や絵画や掛け軸や茶道具や美術品や書道具やアンティーク品など、さまざまなコレクション品を買取りさせて頂きます、電話またはメールでお問い合わせください。

 

永寿堂へのお問い合わせ先

・TEL:0120-060-510
・メール:info@eijyudou.com

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